2017年10月9日月曜日

自筆譜があっても


バッハの「無伴奏ヴァイオリンのための6つのソナタとパルティータ」(BWV 1001-1006)には自筆譜が残されている。「無伴奏チェロ組曲」の解読に日々悩まされる者にとってはまことに羨ましい限りだが、しかしながら自筆譜だからといって何もかもがすべて明白というわけではない。

「無伴奏ヴァイオリン」の冒頭の曲、ソナタ第1番のアダージョは、その流れるような自筆譜の美しさからしばしばTシャツやバッグなどのデザインになるが、ふと第13小節の後半のスラーが気になった。


3拍目のスラーは高いa♭から始まるが、その終わりはどこなのだろう?低いf♯からやや離れた所で途切れているが、その先端はgを目指しているのではないだろうか?また4拍目のスラーはどうだろう?一見やや離れたe♭をも含むように思うかもしれないが、よく拡大して見ると先端がカーブしていて明らかにdから始まることを示している。つまりここでは4拍目のe♭だけが独立していて、他の音はすべてスラーが掛かっているのである。

楽譜で示してみよう。よく理解できるように前後を少し多めに入れておいた。


バッハはボウイング記号を書いていないが、実に緻密に考えられているのがわかるだろう。小節の頭、和音などアクセントのある音がダウンボウで弾かれるようになっている。注目すべきは先ほどのe♭と第14小節3拍目後半のトリルの付いたb♮で、どちらも拍の頭にはないがアクセントのある音なのでダウンボウになっているのである。

出版譜、と言ってもインターネット上で確認できるものだけだが、調べてみたところこの解読と同じものは無かった(あればお知らせ下さい)。3拍目のスラーは1958年の新バッハ全集版ではf♯で終わっており、4拍目のスラーはdから終わりまでなので、もし第14小節の頭をダウンとするならボウイングが合わない。


またレオナール(Hubert Léonard)版のように、gまで掛かっているが、4拍目はe♭から始まって、第14小節の1拍目はすべての音がスラーで結ばれているものもある。


このように自筆譜が残っていてもその解読は様々である。

またバッハの自筆譜に由来する筆写譜もバッハのスラーを忠実には写し切れていない。

   アンナ・マグダレーナ・バッハ: 


3拍目のスラーはおそらくはf♯を目指しているのだろうがcの上で終わっているし、4拍目は明らかにe♭から始まっている。

   ケルナー:

3拍目はf♯までのつもりのようだが、4拍目はやはりe♭からである。

   ゴットシャルクEmanuel Leberecht Gottschalck)による1720年の写譜:


ケルナーとほぼ同様。

   ヴァーグナー(Georg Gottfried Wagner/バッハの弟子でヴァイオリニスト及びバス歌手、1698-1756)によると思われる1723~1726年ごろの筆写譜:


この筆写譜はバッハの現存する自筆譜ではなくその前の草稿から写されたと考えられ、そのためより古い形が伝わっているらしい(こちらの記事(英語)を参照)。スラーはより単純で1拍ごとに区切られている。

このように、最後のものは例外かもしれないが、どの筆写譜もバッハの自筆譜を十分に伝えているとは言い難い。音符がその長さは白丸、黒丸、符尾、符鈎(ふこう、旗)によって明確に示され、その高さは線上にあるか線の間にあるかでほぼ明確に示される(時々不明確なこともあるが)のに対し、スラーは手書きの場合、バッハ自身でさえも時に不明確で判読しづらい。

自筆譜が残っていてもその解読は一つとはならないのである。ましてや自筆譜が残っていない「チェロ組曲」の場合、これも考えられる、この可能性もある、しかもどれも正解ではないかもしれないと、 まことに頼りないことにならざるを得ないのである。

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